こんにちは。年末以来のブログ更新となります。
今回のブログ記事のタイトルは「ラブライブ!シリーズ」への個人的解釈です。かなりざっくりとしたテーマにはなりますが、この4月からはシリーズ史上初めて2クール連続で新作アニメが放送されるという事態が訪れるということもあり、その前に今一度自分の中の認識を整理・共有したいと思った*1ので、このような記事を書くことにしました。
普段はTwitterでこの辺りのことを語ってはいるものの、字数の制限がある中であれこれ言おうとするとやはりどうしてもとっ散らかった印象の文章になってしまうので、それなら思い切ってブログで書いてしまおうというくらいのテンション感の記事ですが、よろしければお付き合いください。(笑)
ここ最近の「ラブライブ!シリーズ」と自分
さて、まずは最近のラブライブ!シリーズの展開とそこに自分がどう向き合ってきたかについてです。
世の中的には2020年以降は新型コロナウイルスが猛威をふるったこともあり、その影響は2次元コンテンツにも色々と及びました。中にはコンテンツそのものの展開が頓挫してしまったようなものもあり*2、ラブライブ!シリーズにおいてもAqoursの6thライブのドームツアーを始めとした各種イベントが中止、または配信のみでの開催となるなど、ここ数年のコンテンツ展開は当初想定されていたものからは程遠いものになっていたと思います。
ただ、ラブライブ!に関しては比較的「イベントを開催しようとする」という動きの強いコンテンツであり*3、特に2021年の秋以降はサンシャイン‼︎、虹ヶ咲、スーパースター!!の各シリーズでコンスタントにライブイベントが開催されるなど、むしろコロナ前よりもシリーズ全体としての展開は活発になった印象です。
さらに、リアルイベントだけでなく2020年秋には虹ヶ咲のTVアニメ1期、2021年夏にはスーパースター‼︎のTVアニメ1期が放送され、アプリゲームの「スクスタ」でもメインストーリーの月1更新は2019年秋のアプリリース以降途切れることなく続いているなど、いわゆる「2次元」の展開も充実しています。
特筆すべきは、それまでのラブライブ!シリーズがどちらかというと1シリーズメインでの展開だったのに対し*4、今はAqours、虹ヶ咲、Liella!がそれぞれ活発に活動しているという点です。アイドルマスターシリーズがシンデレラガールズやミリオンライブ、シャイニーカラーズと並行して展開しているように、ラブライブ!シリーズも「世代交代」をするのではなく3つのシリーズが現役として「並行展開」するという形にシフトしていったといえます。
ただ、それまでが「世代交代」ありきだったということもあってか、「現役世代についてはとりあえず応援します」みたいなタイプのオタクも多く、3シリーズとも追っているような人もかなりいる印象です(僕もその1人です笑)。
こう書くと、「とりあえずラブライブと名のつくものだから思考停止で3作とも追ってるんじゃないの?」とも言われそうなのですが、個人的に決してそうではないと言いたいというのが今回の記事の主旨です。ちゃんと3作とも「ラブライブ!」らしくもあり、その上でそれぞれに違った良さも感じているからこそ、Aqoursも虹ヶ咲もLiella!も「大好き」になれたということです。
共通するキーワード
ここ1〜2ヶ月だけでもAqoursの6thライブや虹ヶ咲の4thライブ、Liella!の2ndライブがあり、それぞれのシリーズ(グループ)ごとに異なる持ち味を発揮したライブになっていたと思います。
Aqoursであればそれまでの強みだった「アニメとのシンクロ」の部分からさらに前に進んで自分たちが「シンクロ」の元となるような物語を作ろうとし、新たな「キセキ」を生み出そうとしています。虹ヶ咲であればソロでの表現力に加えて、ユニットや全員でのパフォーマンスを通じて各々の「好き」の気持ちを最大限尊重しているのが伝わってきます。Liella!であれば確かな実力と徐々についてきた自信に裏打ちされた力強いパフォーマンスで、「夢」を叶えようとすることの尊さを教えてくれます。
このようにシリーズ(グループ)ごとにそれぞれ強調したいテーマは若干違ってくるものの、ここであげたキーワードのどれもがラブライブ!シリーズにおいては非常に大切にされている概念であり、どのシリーズ(グループ)のライブに参加してもそうした部分は強く感じます。Liella!の1stライブツアーが10都市を繋ぐ「キセキ(軌跡)」の物語になっていたりとか、Aqoursのライブで「好き」の気持ちを持ち続けることの尊さを説いていたりとか、虹ヶ咲が12人でのドームライブという当初では考えられなかった「夢」のような今を見せていたりとか、それぞれのキーワードについてはどのシリーズにも共通する要素であるといえます。
Aqoursも虹ヶ咲もLiella!も、それぞれ得意とすることも「やりたい」の形もかなり異なっているのは事実です。ただそれでも、同じラブライブ!シリーズという括りの中でそれぞれを結ぶことのできるキーワードはあるという話です。「キセキ」も「好き」も「夢」もラブライブ!シリーズにおいてはどれもきわめて重要なキーワードであり、それぞれの作品を解釈する上でもこの辺りの単語が出発点になってくると思います。
「ラブライブ!らしさ」として考えられていたもの。μ'sの時代からAqoursの時代への変遷
2016年の3月31日と4月1日に行われたμ'sのファイナルライブの後、それ以降の「ラブライブ!シリーズ」としての展開の中心はAqoursが担っていくようになりました。それまでは「ラブライブ!」とはすなわちμ'sの物語のことであり、μ'sの物語を構成する要素こそが「ラブライブ!らしさ」となっていたわけですが、2代目であるAqoursの物語「ラブライブ!サンシャイン‼︎」の展開が進むにつれて、シリーズ作品としての「ラブライブ!らしさ」とはどのようなものかが考えられていきます*5。
さて、「ラブライブ!」と「ラブライブ!サンシャイン!!」のそれぞれのストーリーですが、「ラブライブ!」の方は主人公の高坂穂乃果を中心に「想い」を原動力として「行動」に変えていくことで、どこまでも進んでいってしまうというある意味神話的で無敵感のある作劇が特徴のストーリーといえます。一方で「ラブライブ!サンシャイン‼︎」は、「想い」を原動力として「行動」に変えていくところまでは同じでしたが、それでどこまでも進めるほど現実は甘くないという寓話的で無力感のある作劇が特徴といえます。
つまり、両者の大きな違いは「結果」の部分にあるということです。「ラブライブ!」ではμ'sは音乃木坂の廃校を阻止することに成功し、劇場版ではすべてのスクールアイドルに華々しい未来へのバトンを渡してその物語の幕を閉じます。対して「ラブライブ!サンシャイン‼︎」ではAqoursは浦の星の廃校を阻止することができず、劇場版でも地道に周りからの理解を得ようとする姿が描かれます。結局Aqoursはスクールアイドル活動を行ったところで、何かの事態を劇的に好転させるということはできなかったといえます。
ただ、そうした無力感の残る結果であったとしても、「想い」を実際に「行動」へと移したことそのものには間違いなく価値があったということに千歌たちが気づくというのが、サンシャイン‼︎でのストーリーの締めとなっています。ようするに、「ラブライブ!サンシャイン‼︎」によって抽出された「ラブライブ!らしさ」は「想い」を「行動」へと移すことの大切さであり、そこに結果が伴うか伴わないかは重要ではないという見方がここで確立することになります。
虹ヶ咲とLiella!におけるはっきりとした考え方の違い
2017年3月30日、ラブライブ!シリーズは新たな局面を迎えることになります。「ラブライブ!スクールアイドルフェスティバルPERFECT Dream Project」(通称PDP)が始動ということが公式によって告知されました。この「PDP」こそが後の「ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」の展開に繋がってくるものであり、μ's→Aqoursで引き継がれていたラブライブ!シリーズにおいて「別の流れ」が生まれた瞬間でもあります。
ここから先、アプリゲームの「スクスタ」の情報やラブライブ!シリーズにおいては3つ目となるグループ*6の「虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」のキャラクターやキャストの詳細なども発表されていくわけですが、どうやらこれまでの「ラブライブ!」や「ラブライブ!サンシャイン‼︎」とは大きく異なった形での展開になりそうということで、「ラブライブ!らしさ」があやふやになってしまうのではないかのような不安の声も囁かれるようになります。
具体的にはアニメとキャストによるリアルライブをコンテンツにおけるメインに位置付けたこれまでのラブライブ!の形*7ではなく、ゲームを中心にキャストも一般的な声優としての形でコンテンツに関わっていくという、他の大きめのメディアミックスプロジェクト*8に近いようなあり方を模索していたような印象もあり、この頃から少なくとも「コンテンツとしての展開のさせ方」の部分は「ラブライブ!らしさ」を担保するものではないという見方が徐々に強くなっていったと感じます。
また、それだけでなくいわゆる「中身」の部分でも、「ラブライブ!」から「ラブライブ!サンシャイン‼︎」に引き継がれたのとは別の要素が強調されるようになりました。虹ヶ咲においては、μ'sやAqoursと決定的に違う点としてメンバーがグループを結成せずにソロのスクールアイドルとして活動するという点があります。μ'sがμ'sとして、AqoursがAqoursとして活動してきたというその「経験」を大切にしているのに対し、虹ヶ咲は「経験」の手前にある「やりたい」という気持ちこそが最も重要視されるべきものであるというスタンスをとってきます。すなわち、実際に「行動」を起こしたとしてもそれが「想い」に基づいていなければ意味がないということであり、言い方を変えれば「行動を起こそうとする中にちゃんとその人の想いがあること」が「実際に行動したかどうか」以上に価値を置かれているわけです。
「想いを持つこと」はきっかけ、「行動に移すこと」は過程、「結果を出すこと」は到達点ともいうことができると思いますが、虹ヶ咲の場合きっかけを最重要なものとして捉えるので、「やりたいことをやる」という最初のところが肝心で、実際の行動や結果は「やっていくうちにそうなった」側面が強いとも言えます*9。きっかけはなんであれ実際にμ'sならμ'sで、AqoursならAqoursで活動をしていくということが価値のあることなんだという話になっていたそれまでの作品とは異なり、「きっかけ」そのものの大切さが主に描かれていたというのは虹ヶ咲が持つ「軸」の部分だと感じています。一方できっかけ、過程、到達点のどれもがラブライブ!シリーズの作品における欠かせないピースとして描写されていることもまた事実であり、その意味では虹ヶ咲も「ラブライブ!」や「ラブライブ!サンシャイン‼︎」から引き継いだ要素を持っているということです。
ここまでで、「ラブライブ!」の作品が持つ要素のうちきっかけの部分を主に引き継いでいるのが虹ヶ咲、過程の部分を主に引き継いでいるのがサンシャイン‼︎という話をしてきました。それでは、現時点での最新作であるスーパースター‼︎はどうなのかについてですが、残る要素である到達点の部分を主に引き継いでいる(引き継ごうとしている)というのが個人的な見解です。「やりたいことをやる」からには、「相応の結果が求められる」というのは、これまでの作品においてはあまり強調されてこなかった部分だと言えます。しかし一方で、「ラブライブ!」も「ラブライブ!サンシャイン‼︎」もそれぞれμ'sとAqoursが作中の大会である「ラブライブ」に優勝するというところは描かれており、「やってきたこと」の価値をわかりやすい結果としても示しているのは事実です。スーパースター‼︎のアプローチはそこが直接的になった形ともいうことができ、やはり「軸」としての新しさは感じられるものの、これもまた「ラブライブ!シリーズの1つの作品」なんだと思います。
きっかけ→過程→到達点という流れで見た時に、きっかけと到達点は直接結びつかない概念であり、それぞれを強調して描く虹ヶ咲とスーパースター‼︎については「明確に違う」というのを感じます。今まで述べてきたように、どちらも「ラブライブ!」という作品が元々持つ要素をそれぞれ引き継いだ形であり、どちらがより「ラブライブ!らしさ」を感じられるのかという話をするつもりはありません。しかし、たしかに同じ「ラブライブ!シリーズの作品」でありながら明確に異なる思想の両者がそれも同時期に活発な展開を見せているという現状はなかなか面白いと言えます。今からしていくのはその辺りの話になります。
ショウ・ランジュのあり方とLiella!における「才能」の描き方
虹ヶ咲においてはなにかをやりたいという「きっかけ」としての気持ちの部分が尊重され、スーパースター‼︎においてはなにかをできるようになるという「到達点」としての結果の部分が重視されるということを述べてきました。虹ヶ咲に関しては、多様性という点についてもこれまでの作品と比べてもより強く尊重されるようになり、気持ちがどこに向かっているのかもそうですが、それぞれの「できる/できない」も一種の個性として受け入れられているような印象を受けます。一方でスーパースター‼︎は「できる」ということが強く求められるような描写が度々あり、「できない」のであればそれは個性として受け入れるよりも「できる」ように変えていくべきだとしています。
虹ヶ咲においても、「できない」から「できる」へ変えていくことに重きを置いた取り組みがありました。スクスタの2ndシーズンでランジュが立ち上げた「スクールアイドル部」は、プロの指導をつけるなどして各々が「できない」を「できる」へと変えていき、純粋なレベルアップを図るというやり方を見せます。個人的な意見になりますが、僕はこのランジュが持ち込んだ「やり方」自体は誤っているものではなく、きちんと価値のあるものだと考えています。ランジュが良くなかったのは「それが絶対的な正解である」と思い込み、違うやり方を採用していた同好会に対して自分のやり方を押し付けようとした点だと思います。そして、この部分に対する1つのアンサーとなったと感じているのがLiella!の存在です。
スーパースター‼︎において、Liella!の位置付けは「才能は持っているが、なんらかの理由によってその(本来発揮すべき)才能を発揮できていない人たち」というあたりだと言えます。「才能がある」というのは言ってしまえば一種の宿命のようなもので、ランジュにしてもLiella!の面々にしても「才能がある」わけだから、その才能を発揮できるようにするのはある意味「責任を果たす」というようなことでもあります*10。基本的に才能があっても無くてもその人のやりたいことをやれるのが良いと考えるのがラブライブ!シリーズの根底にある考え方なわけですが、その場合「才能が無い人」は「才能がある人」よりもシンプルに不利という構図が生まれてしまいます。そのため、才能がある以上はそれに見合った結果を出せるようにするべきだとすることで、その人にとっての「やりたいことをやれる」という価値と才能の有無とで均衡を保たせる必要があるわけです(あくまで個人的な見解です)。
結局、ランジュは「特別」で「才能がある」という存在なわけですが、それゆえにパフォーマンスのクオリティ的な部分に関してはかなり強く拘っている様子が見受けられます。個人的には、このこと自体はランジュの「良さ」であり、虹ヶ咲(スクスタ)の作品内においてもランジュの「個性」として受け入れられた部分だと思っています。スーパースター‼︎は、よりランジュ的な「高いレベルにこだわる」というのを真正面からやろうとしている作品なので*11、いよいよラブライブ!シリーズも「普通」の女の子たちを描く作品から、元々「特別」な女の子たちも描く作品に昇華して行ってる*12というのを感じるところでもあります。
唐可可の果たす役割と虹ヶ咲によって補強されるラブライブ!シリーズの価値観
「到達点」に重きを置いているというスーパースター‼︎の作劇の話から、「結果を出す」ための要素として才能にフィーチャーしてランジュとLiella!について語ってきましたが、今度は「きっかけ」に重きを置く虹ヶ咲の作劇とLiella!における唐可可の立ち位置についての話をしていきたいと思います。「きっかけ」とはすなわち始まりであり、それがなければ物語が動き出さないという意味で非常に大切なものだと言えます。ラブライブ!シリーズにおいてもμ'sであれば穂乃果が、Aqoursであれば千歌が秋葉原のUTX高校*13のビジョンに映し出されるスクールアイドルの映像を見たことで、自身もスクールアイドルを始めたいと思ったことが物語を動かすきっかけになっていました。
虹ヶ咲においては、これまでに述べてきた通り「きっかけ」の部分を非常に大切にしたアプローチでの作劇がなされており、各々が自分の「やりたい」という始まりの気持ちを尊重するためにソロでスクールアイドル活動を行うという様子が描かれます。スーパースター‼︎はそこに関していうと、「きっかけ」というよりは「到達点」の方を強く意識したアプローチの作劇になっていると言えるので、虹ヶ咲におけるソロ活動のような「きっかけ」ありきの「過程」や「到達点」が描かれているような感じではありません。ただ、その中で可可は自分自身にとってもそうですが、周りにも「きっかけ」を与える存在としての役割を担っていると言えます。「やりたい」という原初の気持ちを誰よりも尊重し、そのためにいち早く行動し、体力面での課題もあった中で猛特訓して「できる」ことを増やしていく、まさに「ラブライブ!」のシリーズ作品において培ってきた価値観を体現しているようなキャラクターです。
虹ヶ咲によって原初の「やりたい」という気持ちを大切にするという作品としての価値観を補強し、シリーズ全体の価値観を体現しているような可可が「きっかけ」を与える役割を果たすというのは、ラブライブ!シリーズがそれほど「きっかけ」の部分を大切にしているという証左であるとも感じます。また、こうした価値観は作中において語られるというだけではなく、我々ファンの側にも訴えてきているような内容だと言えます。10年以上続くシリーズであり、メディア展開も多岐にわたることからもシリーズを好きになる「きっかけ」は人それぞれなわけですが、そのどれもが大切なものであり、お互いに尊重されるべきです。そうしたメッセージ性をシリーズ全体として内包していることも、僕が個人的にラブライブ!シリーズに惹かれていった大きな理由の1つであると思っています。
結局自分は「ラブライブ!シリーズ」の何に惹かれているのか
ここまで長々と語ってきましたが、今のラブライブ!シリーズはつまるところ「価値観が多様である」ということだと思っています。シリーズとしての「核」となるような部分はありつつも、サンシャイン‼︎、虹ヶ咲、スーパースター‼︎とシリーズ展開されていく中でさまざまな価値観が取り上げられて、時にはそうした価値観同士で衝突が起こることもあったと感じます*14。そのため、「ラブライブ!は良かったけどラブライブ!サンシャイン‼︎は受け入れられなかった」とか、「ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会には惹かれたけど他はあまり…」とか、そうした感想を抱く人が出てくるのは不思議なことではありませんし、それらをいちいちあげつらう必要もないと思っています。
ただ、個人的には「ラブライブ!」も「ラブライブ!サンシャイン‼︎」も「ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」も「ラブライブ!スーパースター‼︎」も好きだというのは声高に言っていきたいですし、きちんと自分の中でも理由は持っているつもりです。それは今回語ってきたように、多様な価値観を内包しつつも「きっかけ」としてのその人自身の気持ちの部分を大切に扱った上で、「過程」として実際に行動へと移すことの重要さを描き、その先の「到達点」としてなにかをできるようになったり成し遂げだりすることで「きっかけ」や「過程」の価値をより強固なものにするというラブライブ!シリーズに共通する基本的な作劇のあり方が、物語に確実な意味を与えてくれるからで、そういった物語から我々受け手は大きなパワーを感じ取ることができるのです。
さて、ラブライブ!シリーズでは現在「ラブライブ!サンシャイン‼︎」、「ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」、「ラブライブ!スーパースター‼︎」の3シリーズでライブの開催やアニメの放送といった大きめの展開が続いています。今年の秋からはバーチャルスクールアイドル*15の展開もスタートするということで、さらにラブライブ!シリーズ全体として多様性のある展開がなされていくことになりそうです。ただ、ラブライブ!シリーズが持っている「軸」のようなものがある限り、個人的には不安よりも期待を大きくして今後の展開を待ちたいですし、いつか自分がラブライブ!シリーズと距離を置くことになったとしても「ラブライブ!シリーズを好きでいられたこの時間」はずっと大切にしていこうと思います。
最初に「Twitterとかで書くと文章がとっ散らかるからブログで書くことにした」みたいなことを言っていた割に、結局ブログになってもまとまりがちゃんとある文章なのか自信はないですが(汗)、ここまで読んでくださった方がもしいればありがとうございました。この文章を読んで何か少しでも感じ取っていただけたら幸いです。
それでは。
*1:本当であれば虹ヶ咲の2期放送開始前に投稿を間に合わせたかった…
*2:それこそ矢野妃菜喜、ペイトン尚未らがキャストとして参加していたバトンリレーなどが具体例としてあげられる
*3:2021年5月に開催予定だったAqoursのつま恋ライブが中止になって以降、新型コロナウイルスを理由としたイベントの中止事例はない
*4:2016年でμ'sの活動が一区切りとなり、その後はAqoursがラブライブ!シリーズの「顔」として活動することになった
*5:もっとも僕自身としては当時はラブライブにハマる前で、界隈の雰囲気についても外から見た印象や伝聞情報で語っている部分がある
*6:厳密にはグループではない。あぐぽんもそう言ってる
*7:そもそもプロジェクトを立ち上げたうちの1社がアニメ制作会社のサンライズであるため、アニメを中心にするのは必然ではあった
*9:虹ヶ咲のアニメ1期においては、終盤の10話で初めてスクフェスの開催という具体的な目標が生まれた
*10:これはあくまでも才能があることとやりたいことの内容が一致している場合。やりたいことではないが、才能があるからやるべきとするのは考えを改める前の栞子的な適性主義と同じになる
*11:これはストーリー上の展開についてもそうだが、実際のライブに関しても同様の印象を受ける
*12:ここでの「普通」「特別」というのは主に自己認識についての部分
*14:スクスタ2ndシーズンはその辺りを結構踏み込んで描いた内容と言える
*15:シリーズタイトルを含めた具体的な詳細は現時点では不明